『北海道神宮』も落ち着ける場所 [住み心地の良い札幌]
11月20日(水)
北大の池は今〜〜〜
もし〜ここに島義勇がいたらこの札幌をどんな風に眺めるのでしょうか?・・・
『島義勇伝』・・・ 秋の夜長の1っ冊に〜〜〜何度でも。読書も良いですね〜
私は〜札幌に住んで30年〜〜〜未だ何処も一人では歩けませんが〜〜〜
皆さんとご一緒に〜〜〜連れられて〜〜〜 時折〜 出掛けております。
蝦夷地と呼ばれていた北の大地も『北海道』と名前を改め開拓使が設置される。
当時まだ広大な原野であった『札幌』。この地に多くの人々の、暮らしが根付き
豊かに栄えていくと、この当時誰が想像しただろうか?・・・
『開拓判官『島義勇』の物語』
島義勇(しまよしたけ)文政5年9月12日(1822年10月26日)
明治7年(1874年4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけて
の佐賀藩士官使・・・また、札幌市役所および北海道神宮に顕彰銅像、
円山公園には『顕彰碑【島判官紀功碑』がある。
島義勇_札幌の歴史と文化。
島義勇は、1822年(文政5年)佐賀藩士島市郎右衛門の長男として佐賀に生まれ、
1869年(明治2年)開拓使が設置され、その・・・札幌神社(現北海道神宮)
島判官像(北海道神宮) 北海道神宮の社殿前の一角に島義勇の像が建立されている。
『日本の源流を訪ねて』
(島義勇像)(札幌市) 北の大地に生きる 『佐賀の七賢人』
佐賀藩士、島義勇は(1822〜1874)は幕末から明治時代にかけて、北海道の発展に
尽力した。その先見性から、『佐賀の七賢人』の一人に数えられる。
島は藩校の弘道館で学んだ。その後、安政3〜4(1856〜1857)年、
藩士の鍋島直政
(閑叟(かんそう人))幕府による蝦夷地(北海道)と樺太の調査に同行した。
江戸時代、佐賀藩は、福岡藩とともに、長崎警備も担当した。
それだけに藩主、政直は、西洋列強の脅威を肌身で感じていた。
ロシアは樺太や蝦夷地への進出をうかがっており」、島の派遣は
ロシアに対する備えの意味もあっただろう。
この時〜島義勇は、アイヌの生活や自然の様子などをまとめた報告書「入北記』を著した。
維新後、明治政府は蝦夷地開拓を重視した。
明治2年、開拓使を設置し、初代長官には直正が就いた。
島義勇もその下で働く開拓使判官となった。
直正は、就任間も無く、辞任したので、島義勇は後継の開拓使長官、東久世通禧
(1834?1912)と一緒にに同年9月、函館に上陸した。
大変なご苦労もあり???色々あって???東京に戻った島は明治天皇の侍従を
経て5年秋田県の初代権令(知事)となった。 島義勇は佐賀に帰った。
一方〜〜〜 北海道では『開拓の父』として、慕われる。
北海道神宮の他、札幌市役所、(札幌市中央区)建像が立つ。昭和4年には
(円山公園)(札幌市中央区)に顕彰碑「島判官紀功碑』が、建立された。
約50年前、島義勇が雪の舞う丘から〜〜〜いつの日か・・・・
『世界一の都市に」なるだろう)と、吟じた原野は、
今や人口200万人に迫る大都市に成長した。
札幌市中心部は島義勇の都市計画に従った形で発展を続けている。
(九州総局中村雅和)
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こうして〜ご苦労された〜.私達は住みやすい素敵な札幌が大好きです!
札幌に逢えて良かった!!!!!北海道も益々好きになりました。
札幌大通り公園で〜北海道神宮で〜。円山動物園も〜同庁の池の鯉も〜鴨も。
オリンピックも有るんだって!雪も好きになろう〜。皆様と仲良くさせて〜ね。
有難うございます〜〜〜〜ご機嫌よう〜〜〜お元気でね〜
島さんの事績はネットで調べました。
明治の人は強い。
by 夏炉冬扇 (2019-11-20 17:52)
もう故郷ですものね。素晴らしい故郷素晴らしいです。
by みぃにゃん (2019-11-20 18:36)